徒然日記

感じたことや考えたことを思いつくまま記した日記

西の夏

 愛媛県今治市の梅雨は、東京の梅雨とは一味ちがう。東京で梅雨の時季ウォーキングすると、汗が玉になってしたたるのに、今治で歩くと、汗がぬめるように肌にまとわりついて、落ちることがないのである。

 モイスチャー(潤い)という言葉が、男の私の頭にさえ浮かぶほど、今治の梅雨は肌に心地よいのである。東京で56年間生まれ育ったから、このぬめるような蒸気の質感に驚いた。今治の人は気づかないだろうが、「贅沢」だなと思った。

 

 今治の家賃は安い。2LDK(51.79㎡)のアパートが家賃52,000円だから、東京都府中市本宿町の2DK(38.74㎡)の賃貸マンション(家賃65,000円)から越してきた私は躍り上がって喜んだ。いろいろ荷物を持ち込み、さらに今治でも贅沢の粋を尽くして買い込んだものを部屋中並べても、まだあまりあるのだから驚きである。

もっとも、2LDKに一人で住んでいたのは私くらいで、あとは皆さんファミリーで暮らしていたみたいである。

安い安いと思っていた今治の家賃であるが、ここ(今治)を去る8月の終わりに生保の営業の方に聞いた話によると、「松山は学生が住む街だから、家賃はもっと安い。今治はガソリンも家賃も高い」というのだから、車に乗らない私はガソリンはさておき、ものごとは比較の問題なのだとつくづく思い知らされた。

物価というのは、所得とかの関係で感じ方やとらえ方が違ってくるので、その街で働いて得た収入で家計をやりくりしないとわからないようである。

 

東京の実家を売却し、そのお金で生活する私には、今治の正確な物価水準は普通の人とは少し違っていたのかもしれない。

 

車がないから食料品はもっぱらイオンモール今治ですませた。イオンモールというのは東京の小平市で暮らしていた頃は利用しなかったのであるが、今治にはふたつあった。イオンモールで使える電子マネーには、WAON(ワオン)というのがあるのだが、この電子マネーのポイント還元率の良さは、私も素直に驚いた。

面倒なので最初は現金決済していたが、WAONを使ってポイントを現金にしてみると、還元率が高くてとても嬉しいのである。ちょっとした楽しみにもなった。

 

刺身が好きなので、転入当初は刺身をよく食していたが、新鮮ではあるが割高で、魚好きの私には少し残念であった。父が鯛(タイ)をとても好み、私もマグロより鯛が好きなので、買ってみたが水っぽく、東京のほうがなぜかおいしい?のである。

 

宇和島の養殖のタイがコロナ禍で売れないらしく、四苦八苦の様子が愛媛新聞でもテレビでも取り上げられていた。割安な養殖のタイがイオンモールの鮮魚コーナーにあらわれるのを心待ちにしていたが、その日は来なかった。

 

野菜は東京と同じ感覚。果物は割高な感じ。山梨の桃が愛媛でも売られていたのは驚いた。スイカとかぶどうとか、もっと地のものが並ぶのかと期待していたが、東京と変わり映えしなかった。うなぎは東京のOK(オーケーストアーのこと)にならぶ中国産の安いのを食べつけていたので、それを期待したが、中国産うなぎは今治では、店頭に並ばない。九州産の純国産の高いうなぎが、土用の丑の日が近づくと売られるようになる。今治から福山へ移り、フレスタというスーパーで、中国産のうなぎが780円で売られているのを知って嬉しかった(安堵した)。

 

福山では、ためらわずに買って食べた。大きいので一尾から三食分摂れる。うなぎは関東と中国・四国ではたれが全然ちがう。関西圏では甘ったるいコクのあるタレで、これがまたおいしいのである。

 

驚きなのが広島のお好み焼きの安さである。東京の半値の256円くらいで一玉のお好み焼きが、パックでスーパーで売られている。食べて満腹、財布にやさしく、広島の人でなくても買ってしまうこと間違いなし。

 

福山へと関心が移ってしまったが、福山は美人が多い。男性はイケメンが多い。女性は福山駅近辺で美人があまるほど目につくが、イケメンも私がよく使ったサンホテル福山のフロントなど、レベルが高い(期待するのはかまわないが、性格までは私にはわからない。よくできた対応なのでおそらく人格的にも優れていると推測できるのだが)。

 

広島は総じて、ひとあたりがいい。とても気持ちよく暮らせる。新幹線停車駅の福山は適度に都会なので、東京から移り住む人が、浮いてしまうことも、村社会の村八分にあうこともまずない。四国と違って(四国の人ごめんなさい!)安心して暮らせる。精神に与える良い影響は計り知れない。

 

散髪は今治も福山も安い。3,300~3,400円が相場である。東京では普通に4,000円、少し高いと4,400円かかってしまうので、愛媛や広島での理髪代は割安感がある。

苦の終滅

ヴィパッサナー瞑想をして感覚を実況中継します。足を組んで座る瞑想をしています。「痛み」、「痛み」、「痛み」、「痛み」とずっと痛みが続いていき終わらない気がします。痛みは苦なので、「苦」、「苦」、「苦」、「苦」と実況中継していきます。

「苦」、「苦」、「苦」の感覚が「不苦不楽」、「不苦不楽」、「不苦不楽」へと変わり、やがてまた、「苦」、「苦」、「苦」になります。

それでもずっと観察します。苦があって、苦の原因が足(身体=六根)であり、感覚=ヴェーダナーであり、地面(畳=現象=六処)であり、六根が六処に触れる(パッサ)ことから生じることが分かります。

苦と苦の起こる素(原因=素因)がわかります。そして観察を続けていくと、苦がなくなります。何が無くなったかというと、認識(この場合は足のしびれという身識)が無くなったのです。これが苦の消滅です。このとき、同時に感覚(ヴェーダナー)も、想(サンニャー)も、行(サンカーラ)もすべて働かなくなっていることを知ります。認識(ヴィンニャーナ)が無くなることですべてが終わり、苦が無くなっています。

どうやって苦を無くしたかというと、正しく観察していたからです。正しく気づき(サティ)を実践していたからです。

これで苦集滅道(四聖諦)をすべて知ったことになります。

気づきを絶やさなければ、完璧に認識を断ち、解脱することが分かります。

苦を終わらせることができます。

 

 

以下マハーシ・サヤドーの「マハーシ・サヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法」より抜粋します。

 

"今の様に瞑想者たちが普通の苦受であれ、事故の苦受であれ、その感覚に集中し念じるならば少しずつ減少していき、無くなってしまうのを自分自身で体験するでしょう。これが念じることによって感覚を取り除いたのです。しかし、完全に根本から無くなるようにはヴィパッサナーの集中力と智慧が高まっていなければ、しばらくたつとその感覚が再び生じてきます。それは鎮伏(vikkhabhana)、離れさせるという言葉に符合しています。ヴィパッサナーの集中力と智慧が高まってくれば、その苦受を完全に無くさせることができます。ですから、釈尊が亡くなる前に生じてきた病気による苦受をヴィパッサナー瞑想によって取り除くことができたのです。”

 

同様に認識を消滅させることについてのスマナサーラ長老の説法を転記します。

 

“見ただけで、見たことから何が起こるか自己管理できない。いつでも見えたものは自分の都合通りに動くわけではない。激しく動揺して竜巻状態になる。映画館で光がスクリーンに映るだけ。光の変化をみるだけで、どれだけ心がかき回されるか……。我々はやられてる、操られている。

スクリーンに光が映るだけで、スピーカーから音が聴こえるだけで、どれほど自分がクタクタに操られるのか、感情を引き起こされるか。眼と耳だけじゃなくて、このチャンネルが六つもあるんだから。意とは、妄想の流れ。妄想しては貪瞋痴をつくる。妄想して、各自の傾向で貪瞋痴をかき回していく。

これ、止められない。流れについて仏典では、激流(欲kaama・存在欲bhava・見解ditthi・無知avijjaa)という言葉を使う。ここではもっと実践的に、(sotaという語を使って)質問も答えも成り立っている。

アジタさん:ただ眼で見るだけで心かき回される、手に負えない。耳も……。まったく自己管理できない状態。これが生命である。なんだこれは?何一つ、自由というものが成り立っていない。激しい流れに流されているだけではないか。これに、ストップというものはありますか?と問うている。

洪水のような流れの中で何もできない。こんな状態で、私、私、ということもできないんじゃないかと。それはいいけど、これってすっごく苦しいんです。苦しいなら止めたら?と言っても止められませんね。恐怖感に取りつかれている人はつねに恐怖感の妄想している。止められますかね?

精神病にかかっている人はみな妄想でしょうに。妄想で脳が壊れて体の機能もおかしくなる。妄想やめれば?止められませんね。「どうすれば、激流を制御できますか?どうすればダムを作って激流を止められますか?」質問はそれだけ。

Yāni sotāni lokasmiṃ,

この世(生命)において(六つの)流れがあります。

‘‘Yāni sotāni lokasmiṃ, (ajitāti bhagavā)

Sati tesaṃ nivāraṇaṃ止める方法はsatiですよ。

気づきを使ってください。それだけですよ。目に見えたら「色(しき)」と確認するだけ。それで何も起きません。内なる竜巻が起きません。確認するだけで、貪瞋痴がうまれてあらゆる感情が生まれることが見事に止まる。

確認する訓練をしないといけない。確認するときは、(認識は)きちんと制御されているんですよ。川に堤防を築くように、なんの危険もない。心に竜巻が起きない。これは、コントロール、制御する方法ですね。アジタ仙人はどうやってシャットダウンするのか、という方法も聞いている。

paññāyete pidhiyyare

智慧によって塞がれます。

 

観察によって、ありのままのことが見えてくるんです。心に激流がないんだから。それが智慧というんです。因縁の流れが見えてくる。すべて瞬間瞬間生まれては消えていくことが見えてくる。

智慧が現れたら、そこで流れが起きなくなる。

 

眼に対象が触れて、認識が生まれる。それはそのまま。貪瞋痴の苦しみだけ生まれなくなる。見ただけ、聞いただけ、それは大したことないんです。心の中に極端な安穏という状態が生まれる。智慧でシャットダウンしますよと。釈尊、ここで一人称で語る。

Sotānaṃ saṃvaraṃ brūmi ([satiが]流れを制御するものであると私は説きます)と。なぜ一人称としたかというと、このシステムは仏教以外、どこにもないから。

みな、これを知らなかった。ただ流されて生きていただけなんです。釈尊は一人称で、「私は制御を推薦します」と。制御とは気づきですね。気づきを推薦しますと。智慧とは気づきを実践する過程で現れてくるものです。

1042(1036).

‘‘Paññā ceva sati yañca

Nāmarūpañca mārisa;

Etaṃ me puṭṭho pabrūhi, katthetaṃ uparujjhati’’.

 

アジタ仙人の質問です。注釈書によれば彼は偉大な大師匠なんです。

1000人もの弟子を持っていた。大師匠同士の対話なんです。実際には膨大な対話があったはず。この偈は分厚い本の小タイトルと小見出しのようなもの。それだけ読んでも何か理解することができる。二人が中身(本文)で何を話し合ったかはわからない。

突然、偈にナーマ・ルーパが出てくるでしょ。実際は、釈尊はナーマ・ルーパに関する説法をしたということ。質問は「智慧と気づきとナーマとルーパはどうやって消えるの?」

確認能力をアップするところで、耳と音という物質同士がぶつかったところで、何かすごいプログラムが起こる。木の葉が地面ではなく、人の肩に落ちたところで別世界が起こる。物質と物質がぶつかる。それだけ。感じて、聴覚が生まれて、何の音かと頭で解釈して、評価して、感情を引き起こしたり。

派手な世界が生まれる。我々はその世界で生きている。それはナーマ(名)の世界。物質の世界はルーパ(色)の世界。耳に音が触れた瞬間で、光も敵わないスピードで、思考の流れが起きてしまう。それは、まとめてナーマというファンクションです。それは物質とは関係ない世界。

気づきを実践する人には、はっきりした区別能力が生まれる。ナーマの世界とルーパの世界。区別するんですけど、いつでも一緒です。物質によって心が生まれるんですけど、心には物質とは別個に仕事することもできる。評価したり思考妄想したりできますから。それぞれの主観の世界で。

肩に枯葉が落ちたらどんな反応が起きるか、という科学的な法則成り立たない。我々知ってる科学では決まった公式作れない。その世界が仏教ではナーマの世界。すべての生命が実際はその世界で生きているんです。感じた世界で生きているんです。どんな評価したか、どんな感情つくったか。

すべての生命がそれで生きている。それが生命なんです。生命とはなんぞやというのは、科学とは関係ない、別の分野なんです。神経科学などが解明しようとしているが、結局は仏教の世界そのままになっちゃうんですね。

(この質問の前提として、)釈尊はアジタ仙人に名色について詳しく説明したでしょうと推測しないといけない。

「質問に答えましょう。名色が残りなく止滅することについて聞いたでしょう。識(ヴィンニャーナ)が止滅することで、名色が止滅しますよ。」

 

眼という物体に対象が触れるかも。そこで眼識が生まれなかったら、それで終わりでしょうと。(この場合、識という語のなかに受想行識すべて入ってます)

(修行してストップするのは識なんです。これは実践する人にしか分からない。受想行識は一体なんですね。ひとつ止めれば、すべて止まるんです。修行では、受・想・行など心の中身を観察する。修行する人にぜんぜんわからないのは識なんです。修行進むと、識がわかるようになるんです)

修行が進むと受も想も行(煩悩)もほとんど現れなくなる。そこで見えてきた識(認識する心、認識する機能)をストップするんです。これは、本当は冥想して、本物の解脱を体験する瞬間を説明しているところです。言語で説明できないが、体験したひとは、一切を為し終えたとわかっているんです。

理屈では、「認識しないことにしました」といってもそれも認識でしょ? ヴィンニャーナン・アニダッサナン 特色のない識、が涅槃であると。ヴィンニャーナですけど、まったく特色のないヴィンニャーナ。釈尊はあえてこの言葉を使っているんです。

特色がなければ、俗世間的には存在しない。科学者でも誰でも、ものごとの特色を追って調べている。特色なにもなかったらどうしますかと。虚空といったら、わかる気がしますが実際はわからない。空間は認識しない。空間でないものから空間を推測するだけ。解脱とは、虚空を認識するようなものです。

Viññāṇassa nirodhenaとは、涅槃に達したら、ということ。そうしたら、ナーマ・ルーパは終わりだと。ナーマ・ルーパとは輪廻でしょ。苦しみの循環が終わったと。

アジタ仙人の質問は、完全な質問です。……

釈尊はそこから更に説法したと思います。修行のプロセスを説明していく。我々には無常がわからないんです。我々の心は0には反応しない。1にしか反応しない。存在の「ある」という側面しか知らない。「受」けるためには何かないといけない。六根でデータが有の時だけ受ける。ずっと有の世界だけ。

世の中の半分しか知らない。当たった時しか認識しない。無い時は認識しない。あまりにも激しく生滅が起きているから、「有る」と思い込む。気づきが強烈に上がると、実況中継が成り立たなくなる。

言葉なくなると危険なので、生・滅くらいは言葉入れますが、あまりにも早く生滅する。そこでさっと心が滅のほうに入る。そこで解脱に達する。滅を認識するというのは、生命にとってあり得ないこと。しかし、体験できること。観察する能力をピークに持っていくことで、生滅智が現れる。

その時は、指導者もとことん気をつける。極度の集中力のなかで、一瞬、滅を経験したらすべての幻覚が破れてしまう。(解脱に達する)

 

阿羅漢に達すると、随時、心に滅を感じさせることはある。……このように釈尊が解脱のプロセスについて説法したと仮定しましょう。

それじゃぁ、滅を感じたらどうなる?という疑問が起きるでしょう。心があり得ないことをやってしまった。これからどうなる?という話です。

「現象のありのままの姿を知り尽くした方々、いま知ろうとして励んでいる方々(修行中)、なにもやってない一般人、どのように生きているんですか?」

「Kāmesu nābhigijjheyya もの(Kāmesu)に依存することはない生き方」完成者は依存症が完全に消えている、修行者は依存症が発症しないように励んでいる。satiを実践している人には依存症が発症しない。完治はしてないが、症状は起きない。

有学者・修行中のお坊さんには、貪瞋痴を抑えたところで現れる不貪不瞋不痴のエネルギーがある。覚ったら貪瞋痴が消えたから、そのエネルギーさえない。俗世間に譬えがない。空なんです。どうやって空に達したかというと、貪瞋痴を滅尽したことによって。

manasā anāvilo 心が波を打たない。阿羅漢の心にも、有学の心にも、波は起きませんが、後者はずっとsatiを実践していないと。超シンプルな修行なのに、satiをなかなかやらないでしょ?そこにできない理由があると思います。

気づきでいると波がないんだから、激しい波で生きてきたんだから、超つまらなくなってしまう。(satiで)落ち着いた心を確認することで、修行を続けられるようになります。

「Kusalo sabbadhammānaṃ 一切の現象において、よくできている」

「sato bhikkhu paribbaje 気づきがあって生活することである」

 

paribbaje 遍歴せよ、ではなく、生活するべきである/することである、ということ。sato気づき持って。

気づきの実践していく過程で、satiがないと何もできない状態まで行っちゃうんです。気づきがないと足の上げ下ろしもできないところまで、satiを訓練するんです。そこまで行って無常を体験して、滅を認識すると、satiが呼吸と同じになってしまうんですね。

そこまで気づきがあって just live なんです。

スマナサーラ長老の仏教法話 2016年10月14日(金)より)”